狭間の景色
東京ビックサイト。
コミックマーケットが開かれる場所であり、それゆえに一部の人たちにとっては大きな意味を持つ場所である。
しかし、コミケが行われるのは年に二回。それ以外の日は何が行われているかというと、企業による展示会が9割を占める。IT、福祉機器、ビューティーアンドヘルスケア、就職説明会、ギフトショー。一年間、休むことなく毎週何らかしらの展示会が行われている。
イベント設営のバイトを生業にしている僕にとって、東京ビックサイトは第一に職場である。大きなイベントがある時は夕暮れから徹夜で設営に入る。そして、そのまま昼から夜まで働き詰めだ。24時間をずっと会場で過ごすことになる。
夕方に起きだし、人々の流れに逆行するように臨海副都心へと向かう。車窓から覗く日が沈んだ有明は真新しい建物ばかりが幅を利かせ人の気配が希薄だ。
ガラガラの駅。ちらほら見かける同業者らしき姿。蛍光灯の灯りにあふれた歩道を一人歩く。人工の光で溢れ、人気の無い夜の道はなんだかちぐはぐで僕は好きだ。
集合場所に付くとたいていすでに同僚が何人か集まっている。
タバコを吸いながら雑談をする者。仕事の前に軽食を取る者。壁にもたれながら仮眠を取るやつもいる。彼らはどこであっても集合場所に同じ景色を作り出す。
毎回、だいたい知らない顔を見つける。知っているやつだけしかいない現場のほうが少ない。
見知らぬものと働き、共に一夜をすごす。
潮の香りのしない奇妙な海。客のまったくいない真夜中のファミリーマート。物音ひとつしない西館と東館を繋ぐ連絡通路。入り口の広場から遠くに見える観覧車の光。静けさに包まれた吹き抜けのアトリウム。会場の物音が閉じられたシャッターから漏れて反響する東館の中央通路。
非日常でも日常でもない。非日常が生まれる前、ビックサイトが何かになろうとする直前の隙間。そこに僕はいる。
終わらない日常の中で
物語の落しどころというものを石黒正数という作家は探し続けていたのだと思う。
悪の組織が滅亡したあとのヒーローはどうすればいい?世界の終わりはどのように訪れれば面白いだろう?もし、唐突に共同生活をすることになった魔法使いの女の子がどんでもなく不細工だったら?
物語の行く末、結末を模索し続けた彼がたどり着いたのは廻り続ける商店街の日常だった。
デビュー作の「ヒーロー」では小さな楽しみと未来への期待を主人公は見つけただの学生へと戻っていく。漫画の面白さを追及して書いた(あとがきにて本人談)超能力者たちが島に取り残される話でも何一つ戦いは起こらず、物語も進まず、その日の夕ご飯の支度を手馴れたやりとりでこなす所で終わる。
結局、物語は日常へと帰っていくのだ。しかし、彼が結末の向こう側として描かなかった主人公たちの日常はとても眩しいもののように思える。
だから、この作品のタイトルそのものが彼の出した答えなんだろう。
”それでも町は廻っている”
探偵に憧れる高校生の歩鳥の目を通してみる商店街の日常は不思議なこと、面白いこと、楽しいことで溢れている。謎に目がない彼女は日常の中に物語の扉を見つけては片っ端から開いていく。
推理小説家に憧れる歩鳥に小説家のお姉さんがひとつアドバイスをする。
「”毎日が楽しい”その気持ちを言葉にしていくのが小説家の仕事なのよ」
言葉で小説を書く人、音を音楽に変える人、イメージを絵で描く人。みな日常の中に生きている。日常の中で感じたこと、そこで生まれた想い。それがその人だけの物語になる。
物語はいつしか終わる。それでも日常は続く。物語は生まれ続ける。
おかのうえ
その日、仲間たちの溜まり場となっている友人の家で一人きり僕は横になっていた。時刻は深夜12時を廻ったところ。外は小雨。水をはじく車輪の音が小さな暗闇を包み込む。
うつぶせになり目を閉じて耳をすませる。自分の体の重さ、体温の熱さを感じる。
ふいに瞼の奥に遠い日の記憶が写し出される。幼い日に行った海の旅館の夜の記憶。
家族の誰もが眠りにつき、音が失われる。わずかな寂しさの中で目を閉じる。しばらくすると波の足音が忍び寄ってくる。海が名残惜しそうに近づく音。夜の海の闇の底を想像する。不安が胸の奥から顔を出す。
海は決してあの場所からこっちに来ることはできない。冷静に自分に言い聞かせる。
同じ場所で足踏みを続ける波音。そして、次第にそれは小さくなり、やがて安らかな暗闇に僕は落ちていった。
雨を弾く車輪の音、寄せては返す波の音。その二つはいまの僕とあの日の僕の情景をつなげた。その情景が僕の感情を揺さぶる。遠い日への憧憬。あの時の僕が見た景色。それがすごく特別なものに思えた。
どこかへ。僕の知らない風景を見に行きたい。過去への憧憬は未来への欲求へと形を変える。
探しに行こう。瞼の裏に強烈な情景が浮かぶ瞬間を。
そして、それを誰かに手渡すんだ。それをやるために僕はこの場所にいる。
玄関の扉が開く音がした。
「さぁ、鍋やるか!」
俺の寝てる部屋の電気を無遠慮に付ける家主。
そうだ。今日もあいつらと鍋をやるんだった。
意味もないし理由もない 覚悟だけはある
俺は夜中に新青梅街道を自転車で疾走していた。
その日、友人に自分の勘違いを正された。俺の生き方を否定された。完膚なきまでに。同士だと思っていたのは俺だけだった。
自分の感情を捨てきれず、自分の目に写る世界を否定できず、大人になれないまま気が付いたら俺は25歳になっていた。しかし、自分が自分として生きていける場所を見つけた。だから俺は揺らぎながらも馬鹿みたいに自分を貫いていまも生きてる。
そいつも捨てきれずにいると思っていた。でも、違った。そいつはそんなもん大事にしていなかった。くだらない青臭い感情だと切り捨てていた。
それは別に悪いことじゃない。そんなものを大事に抱えても重過ぎるだけだ。自分に合った仕事を見つけて生きていくのがまともなんだろう。あいつは一人暮らしだ。生きていくだけでも一苦労なんだろう。
そして、俺は走らざるをえなくなった。自分が覚悟を持った愚か者であることを証明するために。翌日は朝から仕事、その日も一日働いて帰ってきたばかり。翌日のバイトの集合場所でメンバーのチェックをするのは俺。遅刻は許されない。
最高じゃないか。こんな日に意味もなく自転車で走るのは覚悟を持った本当の馬鹿だけだ。
目的地にはすぐに決まった。先日、サイクリングで行った狭山湖だ。片道20km程度の距離。夜中の11時。俺は自転車にまたがった。
「明日のバイトは大丈夫だろうか?道に迷ったらどうしよう」
そんな弱気な言葉を押さえ込むようにひたすら走る。のんびりと自転車をこぐ会社帰りの人たちを見ては
「俺は彼らとは違う。俺は馬鹿だ。俺にはできる」と自らに言い聞かせ走り続ける。
1時間半走り続けて瑞穂町まで到達した。地図で調べてみると狭山湖の先まで来てしまっている。北上しつつ来た方向に戻る。
だいたい狭山湖の真下まで来ただろうと思われる位置から北へとまっすぐに伸びる道へと入る。前方に広がるのは大きな木々に囲まれた闇。正直怖くなる。湖の周りはほとんど森の中だ。
ライトを点滅から点灯へと切り替えて再び気合を入れなおす。1kmほど走り続けると街灯が一切なくなってしまった。どうしようか立ち止まり迷っていると後ろからパトカーが。
「どちらへ向かっているのですか?」
「狭山湖まで行きたいのですが」
警察に話しかけられて安心したのは人生で初めてだ。
「この先は山道が続いてまた青梅街道に戻るだけで狭山湖にはいけませんよ」
それを聞いて僕の中で絶望と安心感が同時に湧き上がった。
今日はもうここまでにしよう。この様子だと狭山湖に行こうにも道に街灯がない。
そして、家へと帰り始める。
2kmほど走ると「狭山湖←」の標識が目に飛び込んできた。再び湧き上がってくる衝動。この道は見覚えがある。俺は行かなくてはならないのではないか。
意味のない強迫観念。無駄な自問自答。でも、これがあるから俺は俺でいられる。あいつと違う世界を見ていられる。
俺は再び北上した。
昼と夜。雰囲気は違っても見覚えのある景色が俺を安心させる。坂道を一息に昇りきる。ここから先が湖沿いの自転車道だ。狭山湖に着いたのだ。
ここから先は案の定、街灯がない。しかし、今度は迷わなかった。躊躇することなくペダルを踏む。
頼りになるのは自転車のライトだけ。自転車道を走っているので車に気を使う必要がないのが救いだ。木々に挟まれた道。左を見ても右を見ても闇。開けているのは道の上だけ。
足元を照らすべきか道の先を照らすべきか悩む。闇という圧倒的な存在の前に本能的な恐怖を感じる。
いくら走っても風景が変わらない。もしかしたら僕はぐるぐると湖の周りを廻っているのではないだろうか?引き返そうか?不安が押し寄せる。
でもそれでは面白くないじゃないか。先に進みたい。この異常な空間をもっと楽しみたいだろ?
「うぁああああ」
声にならない声を上げ再び進む。闇に目が慣れたので思い切ってスピードを上げる。
すると街灯のある開けた場所にたどり着いた。走り屋らしき人々がたむろしている。少しの安心感と自分と違う世界に住む人々に対する恐れ。早くここから去ろう。
しかし、困ったことにここで道がいくつも分かれていてどっちに進めばいいのか分からない。しかも、自転車道がここからなくなっているので車道を走るしかない。さきほどからすれ違う車たちはものすごいスピードで走り抜けている。さすがに危険すぎる。もはや俺は泣きそうだった。
どうしようかと辺りを見渡すと脇に一本細い道がある。進むとその先は橋になっており車道を上から横断できる。これが自転車道だ!
そこからはほとんどが下り坂だった。先ほどから自転車道では誰一人としてすれ違っていていない。街灯もわずかだがここからは配置されている。思い切って全力で突っ走る。
自分しかいないことへの孤独と同時に、一人きりだという安心感が何故か胸をいっぱいにした。
「これは俺だけの景色だ。俺だけの恐怖だ!俺だけが知っている感情だ!馬鹿にしか味わえない世界だ!」
叫びながら走り続ける。俺はもはや友人への怒りや迷いなどすべてなくなっていた。
気が付くと大きな公園にたどり着いていた。綺麗に並んだ蛍光灯の明かりが舗装された道を照らしている。そして、その先には大きな湖が広がっていた。
湖の中央には大きな橋が架かっている。街灯が対岸まで続いていた。
綺麗だと純粋に思った。そして、これは人間が作り出した景色だと。
そこには人は一人もいなかったけど俺は人間が好きだと、人間のいる場所で生きて行きたいと思った。
そして、夢中でカメラのシャッターを切った。そして、橋の中央にチョークで一言書いた。
「僕は走ったからここにいる」
橋を降りて街へと向かう。もう不安も怒りも俺の中にはない。ただただ穏やかな気分だった。
街に出ると当たり前だが多くの人とすれ違った。そのすべてがなんだか特別に思えてうれしかった。踏み切りで工事をしているおじさんに思わず「お疲れ様です」と声をかけてしまった。できればすれ違う人全員に声をかけたい気分だった。
今日、バイトに行ったら知っている人ばっかりだから挨拶がいくらでもできるな。
そんなことを考えながら家まで走った。