しあわせはトマトのかたち

 「物事には必ず原因があり、それによって結果である現在が確定する」という考え方を因果律と言うらしいけれど、わたしを取り巻く環境が一体何を原因として成り立っているのか、いくら考えてみても分かりそうにもない。
 冷たい沈黙が降り積もった我家の食卓も、咬み合わない歯車を無理やり回しているような友達との会話も、気がつけばそこにありこれからも永遠にそこにあり続けるような気がしてならない。
 先程からわたしのベッドを図々しくも占領し続ける猫のルカは今日も気持ちよさそうに眠っている。人間たちのしがらみとは無縁の彼女は、ただただ、何をするでもなく毎日を過ごす。 母から与えられた朝ごはんを食べ、夜は父の酒のツマミを分けてもらい、夜はわたしのベッドで眠る。猫は存在するだけで偉いのだ。
 ルカは家族の誰からも愛され、遊びに来たわたしの友達からも可愛がられ、それだけはいまも昔も変わらない。やはり猫の存在は人生において不可欠なのだ。
 窓の外を見れば、見事な円を描いた月が電柱の脇から顔を覗かせている。どうやら今日は満月のようだ。時刻はもう2時を回ろうとしているのに眠くならないわけだ。
 何故かわたしは、昔から決まって満月の夜には眠れないのだ。幼い頃、訳もなく高鳴る胸の鼓動をかき消すように、遠くから聞こえてくる電車の音に耳を傾け続けたことを覚えている。
 いつからか、そんな夜は眠ることを諦め両親に気付かれぬようそっと家を抜け出すようになっていた。夜の街を一人で歩き続けるわたしの頭上には、決まって丸い月があった。
 図書館で調べてみると、なんでも月の重力は体の水分を引っ張り精神にも肉体にも多大な影響を与えるようで、満月の夜は衝動的になりやすく犯罪や交通事故が増えるらしい。
 原因が分かった所で、対応策が見つかるわけでもなく、こんな夜は早々に眠ることを諦め、大音量の音楽で胸の高鳴りを抑えつけてしまうのが最善である。
 ヘッドホンを付け適当に選んだCDをかける。意識を耳に集中し音の一つ一つの流れを追う。先ほどまであんなに高く波打っていた胸の鼓動は次第に遠くなり消えていく。気がつけばいつの間に、わたしはヘッドフォンを外しベッドの上で眠っていた。
 

 目が覚めたらルカがいなくなっていた。ベッドの上にも、お気に入りの場所だった本棚の上にも、居間にもキッチンにも玄関にも、どこを探してもいなかった。死期を悟った猫は自ら棲み家を離れ孤独に最後を迎えるという。一瞬目の前が真っ白になった。嫌な想像を必至で振り払う。そもそもルカはまだ生まれてから七年しか経っていないのだ。死期は相当先のはずだ。
 「まだ何も始まっちゃいない。あいつが死ぬのには、まだ早すぎる」
 そんな下らない冗談を呟くほどにはわたしは落ち着いていた。家にわたし以外誰もいなかったので笑ってくれる人がいなかったのは残念だが。
 とにかく探しに行くしかない。身支度もそこそこにわたしは家を飛び出した。高校はもちろんさぼりだ。選択の余地もない。
 裏路地から裏路地へ、公園から団地の裏手へ、わたしは勝手知ったる地元を渡り歩いた。
 お昼をすぎる頃には、家から一キロ圏内はほぼ回りきってしまっていた。猫はいったいどの程度の距離を活動範囲としているのだろう?あてもなく闇雲に探しまわっても見つかる気がしなかった。
 思えば朝から何も食べていない。ちょっとコンビニで何か買ってたべようかな?
 でも、ここで気を抜いて休んだら一生ルカは見つからないかもしれない。そんな根拠のない考えが頭を支配する。不安は何故か確信へと変わりわたしは休むことなく捜索を続ける。
 日が傾き始めた頃、隣町の大きな公園にたどり着いた。小学生の頃、一時期は毎日のように友人たちとこの公園に遊びに来ていた。ひたすら広い芝生の広場がある公園で、バトミントンや縄跳びなどをして遊んだ記憶がある。
 あの頃は何をしても楽しかったし、何があっても友達と一緒にいたかった。家に帰るとそこはいつでも安らぎをくれたし、居間の炬燵でみんなでTV見ながら蜜柑を食べる冬は何よりも暖かかった。
 生憎といまは夏真っ盛りで日差しは容赦なくわたしの肌を差してくるし、あの頃遊んだ友人たちはほとんど離れ離れになり、連絡も取り合っていない。それを寂しくは思うが、自然なこととして受け止めるわたしもいた。
 だからきっと、ルカがいなくなってもいつしか受け入れてしまうのだろう。それがいいことなのか悪いことなのかはわたしには分からない。きっと分からないまま、このもやもやを抱えたままわたしの人生は進んでいくのだろう。
 先程までの焦りが嘘のように、わたしはルカがいなくなったことを受け入れ始めていた。園内の遊歩道をのんびりと歩きながら空を眺める。
 もう帰ろう。公園の出口を目指そうと振り返った瞬間。真っ白な塊が太い木の枝に載っているに気がついた。
 ルカだった。
 「ルカー! ルカー!」
 わたしの声に反応しその白い塊は振り向いた。いつも通り、何事にも興味がなさそうな目でわたしを見ている。
 「おーい!降りてこいよー」
 何事もなかったようにルカは動かない。安心したからかわたしは自分が空腹なことを思い出した。早く家に帰って何か食べたい。
 「お前なー。わたしがどんだけ心配したと思っているんだよ。早く降りてこいよ。家に帰ろ」
 尚も無反応を決め込むルカに痺れを切らしたわたしは自ら捕まえに行くことにした。木のうろに足をかけよじ登る。ルカの座る枝に手を伸ばて掴み体を一気に持ち上げる。
 その瞬間。足をズルリと滑らせたわたしは気がつけば大の字で空を見上げていた。
 夕焼けに染まり始めた空には、奇妙な青白い月が昇っている。雲がものすごい速さで進み、子供たちがはしゃぐ声が反響して聴こえる。
 「なんでだろうね。いつも君は不幸になりきれない。孤独になりきれない。『学校は楽しい?』って聞いたら君は『楽しくない』と答えるだろう。でも『学校に行きたくない?』と聞かれたら君は首を横に振るだろうね」
 非常に珍しいことにルカは興味深そうな目付きでわたしを見ている。
 「おまえ、そんな目もできたんだな」
 「…」
 軽い冗談を飛ばせるくらいには、わたしは猫がしゃべるという奇妙な状況に順応していた。しかし、人語を解しても結局乗りが悪い猫という生き物が残念でならない。
 わたしの言葉を無視して顔を洗いながらルカは上から目線で続ける。
 「今手に入れられる幸せの形というものは、きっと決まっているんだろうね。昔あった幸せの形を取り戻そうとしてもそれは無理なんだよ」
 「そんなことは分かってるよ。そもそもわたしは幸せになりたいなんて思っていない。ただ、曖昧なくせにそこに当たり前のように居座り続け、重たく横たわる軋んだ歯車が気に食わないだけ]
 ルカは顔を洗うのをやめ、少し考えこむように目を細める。その仕草はやけに理知的で、毛並みの白さと相まってまるで化け猫と対峙しているような気になってきた。
 「僕の友達にさ。大学で哲学を勉強している奴が居るんだけど、そいつがいま、夏休みを利用して田舎のほうで農作業しているらしいんだよ。所謂バラボラっていうやつ?」
 いったいどう突っ込んだらいいのかわからなかったので黙っておくことにした。
 「それでね。そいつは『種を植えると芽が生えてくる。分からねぇ。水を上げて肥料を与えると成長する。そして、花が咲いて散って実がなってそれを食べる。分からねぇ。その中の種を植えるとまた芽が生える。分からねぇ』ってずっとボヤいていたんだよ。でも、僕も考えてみたけれど、やっぱり分からなかったんだよね。君なんでそうなるか分かる?」
 「わたしにも分からん」
 「うん。そうだよね」
 満足気に頷き再び顔を洗い始めたルカは最後にひげをピンと前足で上品に跳ねるとドヤ顔で言い放った。
 「僕たちが思っている以上に世界は分からないんだよ! でも、野菜は育てられるし育てた野菜はおいしくいただけるじゃない!だから心配しなくても大丈夫だよ!」
 「トマト食べたいな」
 ルカの熱弁を聞いたあと、わたしの口から出てきた言葉はそれだけだった。
 「うん。家に帰って冷えたトマトをたらふく食べよう」
 颯爽と木から飛び降りたルカはわたしの横を通り過ぎそのまま去っていった。
 家に帰るとルカはいつものように甘えた声で泣きながら父にツマミをねだっていた。
 相変わらず居間には何も会話はなく、父の見るテレビの音と母が包丁で食材を切り刻む音だけが虚しく響く。
 「お母さんお腹すいた」
 「いま作っているんだからちょっと待ちなさい」
 いつも通り、煩わしそうな声が帰ってくる。面倒なら作らなければいいのに世間体を気にして毎晩夕飯はしっかり作る所が母の小さいところだ。その癖、朝ごはんは作ってくれない。わたしがご近所中にそれを漏らしても、夕ご飯はしっかり作っているという事実があればそこまで悪いイメージは持たれないだろう、というこれまた母らしい小さい計算があるのだ。
 「ほら。我慢出来ないのならトマトに砂糖でも振って食べてなさい」
 母が差し出すお皿にはおいしそうな真っ赤なトマトが載っている。砂糖を軽く一振りしてかぶりつく。
 「おいしい…」
 朝から何も食べていなかったせいか、わたしはトマトを丸ごと一個ぺろりと平らげてしまった。
 「母さんわたしにもトマトをくれないか?」
 わたしの食べっぷりを見て触手をそそられたのか父もトマトをご所望のようだ。
 「そんなにいっぱい食べて夕ごはん残したら恨みますからね」
 母は素っ気なくトマトの載ったお皿を父へと手渡した。
 塩を一振りして父はトマトにかぶりつく。
 「お父さんトマトおいしい?」
 「ああ」
 わたしへの父の返事も素っ気ない。本当にどうしょうもない家族だ。
 「なんかあなた達がおいしそうに食べているの見たら私も食べたくなってきちゃったわ」
 そう言い訳しながら母もトマトにかぶりつく。
 無言の食卓にトマトを食べる音だけが鳴っていた。